十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

お釈迦様の遺志

◉弟子たちの反乱(?)

お釈迦様は生前、偶像崇拝を認めなかったそうです。

一見、厳しい戒律か何かに思いますが、よく考えると、その偶像が自分の彫像だったとしたら、それを拝ませるなんて、芸能人か、よほどのナルシストでない限りイヤだと思います。

仮に、ぼくを尊敬してくれる人がいたとして、自分のフィギュアを作って毎日眺めたいって言ってきても、ぼくは許可しませんから。

そもそも、お釈迦様は宗教活動をしていたのではなく、自分の悟った生き方、考え方を、人々に伝えて旅していただけなんです。

あなたはこう生きれば、幸せな人生を送れますよって。
本人は至って純粋に、生活アドバイザーとその実践塾として、ボランティア活動をしていたに過ぎなかったのだと思います。


でも彼はあまりにもカリスマすぎました。
彼の悟った真理は、最高位のバラモンから奴隷階級まで、総ての人を納得させられるものだったんですから。

今現在、政治家先生や大富豪からホームレスまでを惹きつけられるほどの人はまずいません。

仏教マニアを自称する、お笑い芸人、笑い飯・哲夫さんは先だっての東大での講演で
明石家さんまと釈迦の共通点は、話がスベらないことだ」
と語っています。

明石家さんまさんだから天才芸人で済んでいますが、
お釈迦様は話がスベらないどころか、聞く人たちの人生を救う程のレベルなのだから、
まあブロマイドのひとつもほしいと思う気持ちも分からないではありません。

熱烈な弟子たちが勝手に彫像なんか作ろうとしたりなんかして、さぞかし困ったことでしょう。

だいたい、お釈迦様の教えはモノに執着するなってことなんですから、そりゃ根本的に認められんですわな。


◉仏像の誕生は密教の起源か

お釈迦様が入滅した当初は、弟子たちが師匠から学んだこと教典にを書き起こしたりして、その教えを真面目に伝えていってたんですが、
しばらくもすると、心の拠り所を求めた人たちによってお釈迦様の像、つまり仏像が崇拝の対象となり、ここから宗教色が強くなっていきます。

これが、仏教であり仏教でない「密教」のそもそもの始まりだったのかもしれません。

仕舞いには、釈迦の教えを看板に掲げた、何十何百もの異形の像が、異国の地で崇め奉られている今の状況。

こんな目も当てられない事態になろうとは、それこそ「お釈迦様でも気がつくめぇ」

涅槃した先で、お釈迦様はどんな気持ちで見ていることでしょう。

次回は、密教と仏像の関わりを書いてみたいと思います。