十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

仏像の見方

◉国宝にしてほしかったら…

ある仏像を見に行ったとき、国宝に指定されてもおかしくない貴重な仏像が、重要文化財のままだったので、管理人の方に尋ねたら、
「国宝にしたらガラス張りの中に置かないといけないと聞いたので、断ったんです」
とのこと。
その仏像は、今でも重文のまま、立ち会いの上、近寄って触れることすらできます。

ある重要文化財の仏像の場合は、鉄筋の収蔵庫に収められてはいましたが、住職さんによると、
「木造にしたかったんですが、重文認定を受けると、県から収蔵庫を鉄筋で造るよう指導がきたんです」
とのこと。
重文は、管理費など補助金が下りるから、文化財の維持管理のためやむなく条件を呑んだそうです。

また、古来より「薬師如来」で寺に伝来している仏像でも、文化財指定を受ける際、文化庁などが調べて例えば「釈迦如来」だと決まれば、釈迦如来としてでしか認定されなかったりもするそうです。

東洋のモナリザとして有名な、奈良・中宮寺の国宝「菩薩半跏思惟像」は、寺伝では「如意輪観音菩薩」だし、美術学、宗教学的には「弥勒菩薩」とされていて、立場たちばで認識が変ってきます。

薬師寺十二神将の「バサラ大将」は国指定では「メキラ大将」だし、「クビラ大将」は「ショウトラ大将」だったり、十二神将のほとんどに国指定の名前がついてたりします。

仏像維持のためには、文化財認定は欲しいが、寺としてのアイデンティティも保持したい。
その辺のジレンマがほんとうに大変だなと思います。


◉お寺と仏像の相乗効果

お寺に来たのに、仏像だけ見て、お堂を見ずに帰るなんて。
あゝ勿体無いこと…

お堂は仏像本来の場所。
お堂と仏像は一体です。
ばっちり併せて見ないと仏像の本当の良さは引き立たちません。

では、お堂と仏像を見て、それで帰る。
まだ勿体無い。

古寺は、お堂の伽藍配置によって、生きてくるもの。
伽藍の配置にはすべて意味があるのです。

さらにその伽藍は、お寺境内一帯の雰囲気に、見事にとけこんでいるはず。

当たり前のことですが、伽藍があって庭と池があって、仏像があって、あと、醸す雰囲気とかがあって、それ全体で寺院なんです。

自分自身をそこにとけ込ませ、お寺を身体で感じて、仏像を拝するとともに、日頃の喧噪から離れて、自分を見つめ直す機会にしましょう。

そうすることで初めて、拝観料を払って見仏した価値があるのです…

お坊さんみたいなことを言ってしまいましたが、
やっぱり仏像は、御堂に安置してなくちゃ!
というのがぼくの持論です。

博物館などに行くと、数え切れないほどの仏教彫刻が並べられています。
間近で見られるのは有り難いけど、そんな一度にたくさん覚えきれないし、堪能もできないし、味気ない。

博物館の仏像は、単なる美術品です。

博物館に安置されている良質の仏像を見ると、すごく勿体ない気がします。

せめて、博物館の内装をお寺の本堂の雰囲気に改造して、本来あるべき姿で仏像を配置してもらえると、見る側のテンションもかなり上昇すると思うのですが、いかがでしょう。