十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

[見仏文庫](番外編)「邪鬼の性」/水尾比呂志・著【淡交新社】


(今は古書店でしか手に入らない書籍を番外編とします)
amazonで購入

一般的に、お寺を参拝する人たちは、とりあえずはご本尊の前に行き、線香焚いて賽銭投げて、太い紅白の紐で鐘を突き、手を合わせてお祈りして、満足して帰路につく、という方がほとんどだと思います。

そして、仏像に少し興味を惹かれた人ならば、ご本尊だけでなくその他の仏像、例えばそれを囲む四天王など、勇ましいくてかっこいい系の仏像もついでに拝観して、元気をもらって帰ることと思います。

しかしながらそんな人でも、四天王の足元で蠢く異形のものにまで目をやり、じっくり観察ていく人は少ないのではないでしょうか。

その足元には、護法神に踏みつけられながら、邪悪な叫びを全身で訴えている低俗な4種の鬼が横たわっています。
それが邪鬼と呼ばれるものたちです。
(邪鬼については以前「邪鬼の本懐」でも書いたことがあります)

先日から、ちょっとした怪我で入院生活を送ることになり、仏像本や論文をじっくり読む機会に恵まれました。
それらの本の中で異彩を放っていたのが、邪鬼に特化したこの本です。
昭和42年の初版本。ぼくが生まれる前のもので、古書店の通販で安く購入しました。

概要だけをいってしまうなら、邪鬼の起源、日本での仏教彫刻としての黎明期から最盛期、江戸時代以降の衰退期までの、様式と造形の移り変わりを論じたオーソドックスな内容です。

こういう本の場合、だいたいは学者さんが歴史学や造形学などを紐解きながら、その特徴や美術的評価などを交え、要所に著者の主観や持論を盛り込んだりしながら、それはそれは淡々と、理路整然と進んでいくわけです。
これが普通です。
良くいうと無駄がない、悪くいうと難解で退屈。

ところがこの著書は、先に挙げた専門的要素はそこそこに、著者の主観がどんどん前に出てきています。
法隆寺金堂の四天王邪鬼は、仏法に「排除され征服される」だけの「醜怪な矮人」だとか、ちょっと言いがかり的なところから始まり、
東大寺戒壇院の邪鬼では、「仏法の恵みを信じようとしても信じることのできない、現実の苦しみに打ちひしがれた人間」と、だんだん邪鬼目線になってきます。
密教における教義のなかに、人はおろか草一本、小石一個にいたる万物がすべて、それぞれ仏であるとされているところがあるのですが、東寺講堂四天王の邪鬼たちはそれを「額面通りに受け取って、邪鬼もまた仏なり、と叫び」「邪鬼は邪鬼で独立しようではないか、と嘯(うそぶ)き始める」などと妄想全開。(カッコ書きは抜粋)

およそ作者もよくわからない、いにしえの邪鬼の彫像から勝手に物語を紡ぎ出し、ケレン味ある文章で展開させていきます。
かつての権力者たちの栄枯盛衰、それに翻弄されるしかなかったであろう人々の負の部分を邪鬼の姿に置き換えながら熱く語るという、もはや半ば芸術批評、はたまた見仏記の邪鬼バージョンです。

著者もあとがきで、調査や考察の過不足を謝罪していますが、やはり邪鬼に関する資料は圧倒的に少なく、どうしても想像に頼らなければならないところがあるわけです。

ただ、だからこその面白さをこの本には感じます。
普通の学者は文献の欠けている部分を想像し考察し推理し、卒ない文章に仕上げますが、この著者はそれを逆手にとり、熱い想いをオーバーアクションで矢継ぎ早にぶつけることによって、読んで楽しい作品に仕上げることに成功しています。

一見思いつきに思える妄想も、豊富な美術史の知識と数少ない史料の根拠に基づいたものであるから、大いに説得力があるというところも重要な点です。

なぜこのような離れ業ができるのか、著者のプロフィールを調べて納得しました。
この方は美術史家並びに大学名誉教授であるとともに、放送作家でもあり、ギャラクシー賞も受賞しているエンターテイナーだったのです。
つまり、どんな題材でも面白く書けるすごい人だったんですね。

全180ページほどのうち、半分近くが邪鬼のモノクログラビアです。
コントラストの強い、鬼気迫る邪鬼写真集としても楽しめます。

専門書ですので、仏像に関する多少の知識は必要なんですが、わからない言葉をすっ飛ばして読む勇気を持ち合わせるなら、この本を読むことによってこれからのお寺参りの幅がひとつ広がることは間違いありません。
古書店で見かけたら是非手にとってみてください。