謝辞
実をいいますと、このブログは、モバゲーというSNSサイトの日記から転載しているもので、
おかげさまで、前回をもって50回を突破することができました。
こんな好き勝手な文章を、表現できる場を与えてもらっていること、
素人の拙筆を、予想以上に多くの人が読んでくださっていることを、
本当にありがたく思います。
長きにわたり、モチベーションを保って書き続けることができたのも、
書き込みやモバゲーのミニメールなどでいただく、暖かい叱咤激励のおかげであり、
心より感謝いたします。
仏像というジャンルは美術、歴史、民俗文化など、多角的な性格をもっていて、
近年ではホビーの分野にも需要が広がり、
言い過ぎを承知で申し上げますと、フェノロサ以来の革新的仏像ブームの再来を感じています。
けれど、仏像が他ジャンルと決定的に違うのは、
いわずもがな、そこに信仰という強烈な要素があるということです。
仏教の確固たる教義と精神をもって彫り上げられているところに、
他の造形物には見られない、絶対的な核があるといえます。
美術的価値などは明治時代に、先述のフェノロサという学者がもたらして以降のものだし、
ホビー的性格は昭和に入り、みうらじゅんというイラストレーターの、敬意を込めた悪のりから世に広まったにすぎません。
仏陀の教えと信仰こそが、仏像の本質なのです。
にもかかわらず、ぼくが最初に、美術、歴史、ホビーなど、本来のものとは別の要素から列挙してしまったのは、
やはりぼくの中での優先順位が、そうだからだといわざるをえません。
ぼくの見仏価値は、みうらじゅんさんのそれに近く、
ぶっちゃけると、信仰心はありません。
そこに一般参拝者の価値観との、かなりの隔たりが生じているのも承知しています。
野球の試合内容に興味がない女子たちが、
イケメン選手に会いたいがために球場に足を運んで、試合も見ずにはしゃいでいるようなもので、
真剣な野球ファンが不快に思うのは当然でしょう。
かといって、無神論者のぼくが、信仰の目をもって仏像を見ることは、どうしても無理でした。
それでもぼくは、それ以外のさまざまな角度から、仏像の可能性を広げていきたいのです。
誤解を恐れず提唱すると、
"念仏なくとも、
仏像好きなら救われる"
これがぼくの理想とする見仏です。
当然、見仏を続けていく過程でぼくの気持ちがホビーから信仰に変わる可能性も十分に考えられることであり、
その時はその流れに逆らうことなく身を任せたいとも思っています。
そういうことも含め、万人に応じてその姿を変える、変化観音のように、
いろんなタイプの人が楽しむことのできる見仏を見つけていくことが、
ぼくの夢であるとご理解下さい。
ただし、今後万が一、ぼくが仏像に対して敬意と礼儀を失したときは、
是非ともみなさまの厳しいご指導を頂きただけることをお願いして、
50回突破の謝辞とさせていたします。
合掌。