十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

邪鬼の本懐

光あるところには影がある。
悪なきところに善はなし。


前回、疑心暗鬼がでたので、強引に邪鬼の話です。


四天王や十二神将など、鎧をまとった仏像を総じて「天部」と呼びます。
そして、彼ら天部の像たち(主に四天王)に踏みつけられて、足下でひしゃげているのが、

人の邪心の象徴「邪鬼」です。


仏を護り悪しきを挫く、正義の守護神・四天王。

見仏人は、そういったカッコイイ天部の像に、目を奪われがちですが、
ショッカー然り、ドロンボー然り、
ヒーローは悪役が魅力的だからこそ、光っていられるのだということを忘れてはいけません。

感心するのは、この邪鬼たちは、そういった自分の立場を非常に良くわきまえており、
誇りをもって引き立て役に徹しているということです。

これでもか、これでもか、という感じの苦悶の形相が、遂には、どうだと言わんばかりの、したり顔に見えてきます。

まあ、見れば見るほど晴れ晴れとした顔つき。
使命を存分に全うしたという満足感、充実感に溢れています。
得意気にピースサイン(?)をしている邪鬼までいます。

これぞ邪鬼の本懐。
まるで踏みつけられることを楽しんでいるかのよう。

あぁ…
ま、またもSMか…
こんな予定ではなかったんですが…


閑話休題
正義の使者に踏みつけられる邪鬼の姿。

その「仏法に諌められる人間の邪心」という崇高なテーマの裏側には、
仏師のせめてもの遊び心が詰まっているように思えてなりません。

尊い如来の彫像ではとても出来なかった、自由奔放なな発想を、
仏教界の下層部に位置する天部の場で、思い切り表現したのではないでしょうか。

それはまた、自由にいきることを忘れがちな現代人に、
「もっとハジけなはれ、度を過ぎたら、上で抑えたるさかいに」

と諭してくれているようにも感じるのです。


光と闇は表裏一体。
善と悪もまた然り。

ひいては、緩と急、仕事と遊び、マジメとアホ。
どちらが欠けてもうまくいきません。
それはまさに人間の心。

崇高で堅物な仏師が、無邪気に邪鬼を彫る姿をイメージしたとき、なんだか時代を越えた親近感を感じるのです。