十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

仏像論・娯楽編

前回は仏教、今回は仏像について。

鎧を纏った天部の仏像は
もともとインドの神様だったものを仏教の護衛のために連れてきたものだから
造形に遊びの要素が非常に多いんです。

先日記した餓鬼もそうですし、例えば画像の天部像、飛鳥寺深沙大将(じんじゃたいしょう)」も、どう見てもウケ狙いとしかいいようがないです。 
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インドの宗教は、永い永い年月を経て、数々の宗教が淘汰され、融合され、現在のヒンドゥー教にまとまりました。

そしてその神々も、各宗教ごちゃ混ぜで混沌としたまま、守護神として仏教に取り入れられました。

だから、仏教に帰依したとはいえ、所詮は外様大名的異教徒で、比較的いじりやすかったのでしょう。

天部の像がふざけて赦されるのも、そういう素地があるからだと思います。

大乗仏教が確立されたそのときから
天部像は、アニメキャラクター的ムードメーカーとしての役割を担うことを、宿命付けられていたのです。

だからそれはいいです。
しかしながら…
人々を悟りに導く、如来や菩薩系は、別なんじゃないでしょうか。


正直、彼らがどこまでマジメにやってるのか、分からなくなってくるんですね。

2枚目の仏像は、日記の初回にも出てきた「誕生釈迦仏立像」です。

この仏像、超ゆるキャラにもかかわらず
東大寺灌仏会という由緒ある法要に使われているのです。

厳格な儀式に使うための仏像がこんな風に出来上がってきたとき
時の御門、聖武天皇の反応はどんなものだったでしょう。

それとも、お妃の光明皇后が、
ゆるく作られよ
とでも命じたんでしょうか。

また、灌仏会というのは、いわばお釈迦様の誕生パーティーですので
もしかして元来、もっと楽しく、くだけたノリの法要だったのかもしれません。

灌仏会は現在も、この像を使って行われるそうです。

脱力系の仏像に向かって、くそマジメに読経している姿に、
古代と現代の感覚のズレのような違和感を感じるのは、ぼくだけでしょうか。

でも、そこが仏像の魅力的なところでもあるのだけれど。