十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

阿弥陀仏vsご先祖!

日本の仏壇に祀られる仏像のナンバー1は阿弥陀如来です。

そして信心深い人は、毎日仏壇に手を合わせます。

でもよく見てると、みんなが手を合わせているのは阿弥陀さんにではなくて、ご先祖さんになんです。
「おはよう、おばあちゃん…」なんて話しかけたりして。

阿弥陀仏とか仏壇とかいうのは、亡くなったご先祖さんを極楽へ行かせるための補助アイテムとしてしか存在していなくなっています。

もともと阿弥陀信仰は、自分自身がが死んでから、極楽に行けますようにと、自分自身が阿弥陀様に願うためのものです。

釈迦が唱えた仏教自体、自分の生活の苦しみを解消するための方法を説いたものだし、禅宗だって念仏宗だって、どんな信仰でも主体は自分。

そもそも、すべての衆生を極楽へ連れて行くことが、阿弥陀様自身の目標なのだから、
他人が横からお願いしなくても、生前のご先祖さんに、信心があったのならば、ちゃんと極楽へは連れて行ってくれます。

逆に本人に信心がなければ、多分誰が頼んでもだめです。

それでも我々は他人、それも死者のために南無阿弥陀仏を唱えます。

日本においての信仰が迷信となり、現代人の生活から離れて以来、
阿弥陀仏は自分のためではなく、死者という、この世にいない存在とセットにされてしまっているのが現状。

しかし決してぞんざいに扱うわけではなく、それに対する礼をものすごく重んじます。

そして何かの折りに、人は信仰に頼ります。

誰に頼るかというと、仏様ではなくご先祖様に頼ります。

「天国のおばあちゃん、息子を護ってやってください」
とか。

本来、現世利益、つまりこの世でのお願い事を叶えるのは、薬師如来観音菩薩の仕事なのですが、
現代人には観音力よりも、ご先祖さんの霊力の方が上のようです。

季節の節目で、加持祈祷などに参拝者の列ができますが、その中の多くの人にとって、祈祷は単なるイベントごとに過ぎません。

本当に困ったときに、不動明王におすがりする人なんて、今の衆生にはあまりいませんから。

日本の仏教において、阿弥陀崇拝の時代は過ぎ去りました。
今や、先祖の写真崇拝が信仰の主流といえます。

仏様にとっては冬の時代、というか、逆に言うと、仏像への信仰が薄れているからこそ、宗派や規則に縛られず、鑑賞対象として、誰でも気楽に仏像拝観を楽しむことができます。

いい時代に生まれたもんだと、ぼく自身は喜んでいます。