十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

なによりありがたい秘仏

月1度だけ公開、地蔵盆にのみ公開などなど、
なにもそこまでもったいつけなくでいいのではないかと、以前秘仏に関して不満を書いたことがありますが、
不満なんて決して言うことのできない秘仏もあります。

先日参拝したお寺は、山奥の小さな村落にありました。
お目当ては、毎月一日だけ公開される、平安期の不空羂索観音坐像。

ナビもギブアップするような辺境地で、
道中不安になりながら、何とか場所は判明したものの、
車幅ギリギリの鋭角カーブが幾度も続き、
ぼくのくたびれた軽四では後ろにひっくり返るのではなかろうかと思えるほどの急な坂道。

一生懸命登った先に、雑然と小さな本堂はありました。
といっても、言われなければ誰もお寺だなんて思いはしない、何か寄り合い所のような佇まい。

中を覗くと、どう見ても僧侶っぽくない年配の殿方が二人、
井戸端会議をするでもなく、所在なげに座っていました。

「あの…」と声をかけると、ビックリしたように振り向き、しかし「参拝ですか」と応えていただけた。
ようやく間違いなかったんだと一安心。

この寺は無住寺で、 彼の人たちは、やはりお坊さんではなく、この集落に住む一般のご隠居サンでした。
一年間輪番で月一回、滅多に来ない参拝客のために、一日中ここに詰めておられるそうです。
気さくな方々で、ぼくも畳に座り込み、談笑しながらの見仏となりました。

仏像は素晴らしいものでした。
興福寺が焼き討ちに合う前の不空羂索観音(現在のものは後世の作)の姿を模したといわれ、
歴史的、文化財的にもかなり貴重なものです。

でも考えてみると、一般公開する義務など、この人たちにはないんです。
村のご本尊としてひっそりと拝んでいていいものを、
こうして自分の時間を犠牲にして、一般開放してくださっています。

「家におっても暇やねん」とおっしゃいますが、
この暇潰しがあってこそ、この素晴らしい観音像を目にすることができるのだから、
月一回、開けてくれて本当にありがとう、という気持になります。

この他にも、事前連絡すれば、村の方が常時扉を開けに来てくださるお寺はたくさんあります。
無礼にも到着してから急に連絡を入れたとして、ほとんどの方が嫌な顔もせずに対応していただけます。
本当に頭が下がります。

こうした方々の好意により我々の見仏は成り立っているということを胸に留め、感謝をもって仏像と接したいと思います。