頭上面、集結の謎(渡岸寺観音堂2)
前回の続き。
精錬された彫刻美が映える、
渡岸寺観音堂の、国宝・十一面観音立像。
この観音像には、仏師のひとかたならぬ、こだわりが見られます。
それを考えていくうちに、
この観音様の意外な行動が、浮かび上がってきたのでした。
この十一面観音像には、本来あるはずの頭頂部の化仏がありません。
頭のてっぺんには観音菩薩の師である、阿弥陀如来の頭がこなければ、
儀軌(仏像の決まり)に反していておかしいんです。
ここに仏師のこだわりがあったのです。
菩薩面が両耳の後ろに、重たそうに付いているので、
てっぺんに螺髪の髪型である如来を配した場合、
横長でカッコの悪い顔になってしまいます。
縦にも伸ばさないとバランスが悪い。
だから頭頂部の面には、縦長の宝髻を結った菩薩を付け、宝冠を被らせたのだそうです。
如来面がない代わりに宝冠には、如来を五つも付けて、体面を保っています。
なんというデザイン至上主義。
儀軌を無視してまでのこだわりは天晴れです。
ただしこれは、係の人に聞いた話で、情報の出自は分かりません。
でも理屈には合っているし、何だかイキなので、ぼくはこの説を支持します。
問題はなぜ、二つの面を耳の後ろに持ってきたのかです。
通常、十一面観音の頭上面は、観音像の頭を360度囲むように配置されています。( 写真は聖林寺像)
助けを求める衆生が、東西南北どこにいても、
すぐにでも駆けつけられるように目を配っておくためです。
ところが、ここの十一面観音は、後ろの面は、暴悪大笑面ただ一つ。
残りはすべて前の方に、ズリズリと移動をしてきています。
当然、九つの面が一列に並べるはずもなく、後方の二面は、両耳の後ろに降りてくることになります。
本題はここから。
前方ににじり寄ってきた貌は、なんと
一斉に正面を向き、あるいは首をひねって正面を向こうとしているではありませんか。
試しに像を背面から見てみたとき、暴悪大笑面以外の目は見ることができません。
ひとり残された暴悪大笑面は、過激に大笑いすることによって、
前に回った二面の分まで、仕事をカバーしていたのです。
彼らの前方に、一体何があるのでしょう。
すべての貌を集結させなければならないほどの何かが、そこにはあるはずです。
その謎は、全体像の動きから解明することができました。
続きは次回の講釈で。
つづく