十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

円空仏、メタモルフォーゼ!

前回、円空は木材に宿る仏を、少しのヒントを付け足すことにより、
民衆に分かりやすく悟らせたのかも、と書きましたが、

仏像に造詣の深い、梅原猛、井上正、両先生方は、未完成の仏像をについて、すごく興味深い説を唱えておられます。

奈良時代天皇は威光を示すために、豪華絢爛な金銅仏や、高価な漆の仏像を官営の寺に祀りましたが、

一方で、民衆布教を熱心に行っていた行基という僧は、
人々に仏教を根付かせるために、面白いことを始めます。

鎮守の森、ご神木などと言われるように、
仏教が入ってくる何百年、何千年も前から、
日本の樹木には神様が住むと信じられていました。

そこで行基は、仏像の材料として、日本人が最も崇拝する、
"木"を選びました。
なにより安上がりだし。

行基の実態は定かでなく、後世の文献に頼るしかないんですが、
実は、行基ゆかりの寺にある仏像には、共通して奇妙な特徴が伺えます。

そのひとつに、未完成っぽいものが多いというのがあるようです。
目だけ彫っていなかったり

(大阪・太平寺)、

螺髪が途中でなくなってたり

(京都・地福寺)。

だがしかし!
これは決して目が"なかった"り、螺髪が"消えて"いるのではなく、
木が徐々に仏の姿に変わっていく様を描いているのだというのです。

つまり、螺髪は消えているのではなくて、まさに"出現"しているのであって、
目はないのではなく、まさに"開こうと"しているんです。

地福寺像の螺髪を見てください。
生え際から頭のてっぺんにかけて、きれいなグラデーションになっています。
放置だとか失敗だとかじゃなくて、
これはどう見てもわざとです。
何を意味するかは一目瞭然。
木から仏へのメタモルフォーゼの表現なのです。

神の本性が仏の姿で降臨する"本地垂迹説"がここに具現化されたのです。
カッコイー!!

蛇足ですが、行基が木彫仏を庶民に根付かせていなかったら、今の仏像文化も存在しなかったに違いありません。

そういうわけで、円空の未完成仏も、
このいわゆる「霊木化現」の精神を受け継いでいるといえるのだというのが先生方の主張なのです。

だから、こんな仏さま(愛知県・荒子観音寺)を「はい、完成!」ってわたされても、未完成だと怒らずに、
この木片のメタモルフォーゼを頭に描きつつ、完成仏を心で感得するというのが、正しい円空仏の鑑賞法なのです、きっと。