十一面サンタの仏像ばなし

大好きな仏像の魅力を、独断と偏見で書き綴ります。

強敵、禅宗寺院!(東福寺)

(前回の続き)

「仏さまは天国にいるんでも、仏像の中にいるんでもなく、
生まれつき自分の中に持ってるもの。
だから座禅を組み、瞑想し、
自分の中の仏さまを見出して、
そこから悟りの道を開いていく」

超簡単にいうと、禅宗(曹洞宗臨済宗など)の教えはこんな感じだそうです。

念仏で極楽浄土も求めないし、真言を唱えて護摩も炊かない。
煩悩を追い出すよりも、仏性を呼び起こすことに重きを置きます。

残念ながら、禅宗にとって仏像は、あまり必要でないもののようです。

今回訪れた、妙心寺東福寺相国寺は、
いずれも臨済宗のお寺ですが、
東寺のような密教寺院と比べて、仏像的にものすごく地味です。

前回書いた三門の仏像は、
禅寺にしてよくぞここまで、と感謝したいくらいのスペクタクル演出でした。
が!
キャストティングはいたって地味。
よく考えたら、毎度おなじみ明王、天、それに変化観音などの顔ぶれがほとんどないんですね。

三門の19躯の仏像、
釈迦、十六羅漢、月蓋長者、善財童子は、
実在の人物です。

普通、真言宗などの釈迦三尊像は、
釈迦如来・普賢・文殊両菩薩が鉄板トリオです。
でも、禅宗では釈迦の隣に侍るのは"摩訶迦葉(マカ・カショウ)"と"阿難陀(アナンダ)"。

ともに長年、釈迦に仕え、
師匠亡き後もその教えを伝え続けた、十大弟子のメンバーです。

どういうことかというと、
禅宗の仏像というのは、
阿弥陀如来観音菩薩像のような、祈願する対象とも、
また、巷に見かける、法然空也上人像など、
畏敬の念を持って礼拝するだけの対象とも、
まったく性格を異にした、
つまり、日夜修行に励む僧たちのための、座右の銘的シンボルなのだと思います。
偉大な先輩と共に〜! みたいな。

東福寺では、四天王を本尊の周りに配置していますが(写真) 、
この様子では多分、軽いお守り程度の意味でしかないのでしょう。

あと、意外に多いのは
ゆかりの天皇像や、寺院のために尽力した上人像。

だけど、禅宗はが広まったのは鎌倉以降だから、
古代の寺院に定番の、聖武空海役小角などは、お呼びでないようです。

花園天皇やら後水尾天皇、大燈国師やら夢想国師
こうなるとぼくなんかはぜんぜん、禅禅、ついていけません。
上級者向け見仏コースです。

でも、この時代のファンには、たまらんのでしょうね。
すんません、ボチボチ勉強していきます。